プレリュード オブ ローズ・トゥ・ロード

coyoteD20です。

WoDゲーマーな私ですが、ストレンジソングを買ったことから、 不意にローズファン(注1)になってしまいました。

ローズトゥロードのよいところは、やはり物語の可能性を大切にすることでしょうね。
そんな展開ってありえない! 何の脈絡もない(注2)
と叫びたくなる所をぐっとこらえて、
まてよ、そういうことがあったらステキだな、と思いなおす。
そして、なぜ、そうなってしまったんだろう、と考えるんです。
自分がGMとして解釈に迷ったら、プレイヤーに投げかけて、一緒に考えてみる。
だれか一人でも、「間違ってるかもしれないけど…」と解釈を語り始めたら、
あとはみんなで「そうだよ、きっとそうだ」と言う。
こうして、双方の求める物語が出来上がるんですね。
ここまでRPGの根本的な仕組み(注3)が自然に取り入れられたゲームは、ローズの他にはないかもしれません。

このように僕はローズトゥロードを高く評価していますが、それはこの「可能性を大切にする」という姿勢が、他のゲームでも大切だと思うからです。
それが顕著に現れるのが、前回の Silly Works コンで取り上げられた World of Darkness シリーズです。

WoDシリーズを所有しているのに、
考えた物語に自信がもてなかったり、どんなゲームをしていいのかわからなかったりして、
実際のプレイに踏み切れないということは良くあります。
WoDは、中心に一本大きな筋道があって、その中での物語には最大限の自由が保障されている。
でも瑣末なことには細則がある世界なんですね。
だから、
可能か不可能か、正しいか正しくないか、一般的か特殊か、
をつい問いたくなり、自由さを与えられながらも、なおもプレイが滞るという現象が起こってしまうのではないかと考えています。
――そこで、ローズなのです。

ローズをプレイすると、世界の可能性に対するアンテナが鍛えられます。
暗黒の世界内で、不条理と「される」こと、通常はありえないと「いわれる」ことが、
「それは、こういう出来事の積み重ねの妙なのかもしれないね?」と、
勇気を持って解釈できるようになる。
ローズトゥロードで自分の歩んだ道が、まぎれもない「王の道」であるのと同じように、
WoDで自分のキャラクターが味わった現実こそが、まぎれもない「暗黒の世界」である、
と思えるようになるのです。

WoDにおいて、ある事象がふさわしいかふさわしくないかを考えてしまうことは、
もっとも楽しいことであると同時に、もっともつまらないことでもあると思います(注4)
仮にある事象が不適当であるなら、本当におかしいな、不思議だなと認めた上で、
あえて素直に味わう姿勢も、時には必要
(注5)。なのではないでしょうか。

さて、WoDファンとしての私はローズトゥロードから、「可能性」と「解釈」という宝物を得ました。
次は、友愛の証にWoDファンとしての私が、ローズトゥロードに何かを捧げる番です。

暗黒の世界の人狼族(注6)は、力を貸してくれた精霊に歌をささげる(注7)ことがあると聞きます。
私も、それにならい、暗黒の世界にふさわしい歌を、
すなわちキャラクターの『序章(注8)』、始まりの物語を捧げることにします。

『序章』にすすむ

厚顔無恥氏による注釈雑感

注1:ローズファン
ローズファンなど幻想である、と誰かがそっと教えてくれた。
注2:何の脈絡もない
その意味では、シーン制のファンタジーRPGこそ、真のファンタジー RPG といえるのだろう。
注3:RPG の根本的な仕組み
人はわかりあえる
注4:もっとも楽しいことであると同時に、もっともつまらないこと
WoD の設定を掘りだして適用していくことは、それだけですごく楽しいんですよね。
本当にいいゲームだなあ。
注5:不思議だなと認めた上で、あえて素直に味わう姿勢も必要
別に、探す石の儀式で三角測量をしたっていいのだ。ほんとだよ、怒ってないよ。
注6:暗黒の世界の人狼族
ワーウルフ:ジ・アポカリプスは好評発売中。
ファンタジー脳を要求される点で、かなりローズに近いゲームだと思いますよ!
注7:精霊に歌をささげる
何を捧げれば精霊は喜ぶのかということも、時には議論の対象になる。
なんでもいいんだけど、なんでもいいわけでもない、というのも WoD の魅力の一つだなあ。
注8:序章
暗黒の世界の住人たちは、最初から人ならざるものであったわけではない。
彼らが人間としての生を失い、怪物として「生きる」ことになる「変化の物語」を、序章と呼ぶのだ。

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