フォーセイクンとリリカルなのはなんてだいっきらい!

「リリカルなのは」というアニメ番組をご存知だろうか? 私立聖祥大附属小学校3年生(あー……長い)の高町なのは、という少女が主人公の、魔法少女ものである。私の知り合いにも割合見ている人が多い。

 ところで、「とらいあんぐるハート」(以下とらハ)というゲームがあるのはご存知だろうか? 1,2,3とシリーズ的に、同じ町を舞台にしたハートフル(?)ストーリーである。それぞれにテーマがあって、1が「やさしい恋は好きですか」で学園モノ、2が「一緒に暮らしてくれますか?」で女子寮を舞台にした管理人が主人公の話、3が「守りたいものありますか?」で剣士が主人公の学園モノである。時系列的には、2が一番早くて、その1年後が1、そこから7年後が3……ということになっている(正確なことは書かれていないが、ゲーム中で出てくるセリフをかき集めた結果、そういう計算になった)。
 私は、シリーズの中でも「とらハ3」が一番好きだった。演出の仕方といい、音楽の使い方といい、はたまたストーリーの構造といい……とにかく大好きだった。各シナリオを20回以上はプレイしたはずである。主人公・恭也の義理の母親である桃子が経営する喫茶「翠屋」の日々。あるいは、毎日の高町家での食事の場面。そして、同居人たちのドタバタ。どれもこれもが、肩の力を抜いて見ていられた。数々のゲームをプレイしたが、いまだにトップクラスの出来であると、私は確信している。

「とらハ3」には、ゲーム攻略の度合いによってオマケコーナーが追加される。オマケコーナーの中には小シナリオが二本入っていて、一つは、「花咲く頃に会いましょう」、もう一つは「CMスポット」。「花咲く頃に〜」は、同年代の幽霊少女との出会いと別れを描いた、ちょっと切ないお話。「CMスポット」の方は魔法少女ものをやるかもしれません(嘘)、という予告CMである。そして、この二つの話の主人公が、あの「リリカルなのは」の主人公、高町なのはなのである。
「リリカルなのは」の原点はここにあったのだ。だが、この時点では、ネタCMレベルでしかなかった。魔法の国からやってきた女神様が就職難で困っていたり、なのはの魔法のステッキは有料で制作してもらわなければならなかったり、魔法の国は最近経費が落ちにくかったり、死んだはずの士郎(父親)が生きていたり……と滅茶苦茶だった。実際、きちんと「嘘」だと書かれていたので、それを真に受ける人は少なかったはずである。
 その後、ファンディスク「リリカルおもちゃ箱」が発売され、魔法少女「リリカルなのは」が現実のものとなった。クロノという魔法の国(ミッド・ガルドだったか?)から来た少年との物語を基軸に、士郎と桃子の出会いと別れ、美由紀の母娘の関係、高町家の日常……などが本編と矛盾しない、あるいは補足する形で描かれた。これによって「リリカルなのは」は、元の「とらハ」物語の中の一つとして位置付けられたのである。
 シリーズを作ってきた都築真紀も、「3」がシリーズの最後であることを表明し、一応の完結は見たかのように思われた。

 だが、それから数年後、事態は急変した。

「柚木さん。最近、面白いアニメがあるんですよ」
「へぇ。そんなに面白いんだ」
「『リリカルなのは』ってやつなんですけどね」
「え゛!? そ、それって、主人公は高町なのは?」
「あれ? 知ってるんですか? なんか、兄貴が剣士だそうですよ」
「母親は『翠屋』って喫茶店を経営してるんでしょ? それで……」

 聞けば聞くほど、「とらハ」だった。でも、死んだはずの士郎は生きているし、クロノもリンディ(クロノの母親)も影が薄いという。しかも、魔法少女に必須のお供の得体の知れない動物は、原作だとキツネなのにフェレットだそうだ。でも、なにより一番ショックだったのは、それらをひっくるめて、原作からは大きくかけ離れていたことだ。
 一つは呪文詠唱。本編では「リリカルマジカル……思い出を返して!」というように、リリカルマジカル+“目的”の形だった。なのにアニメでは普通に、英語だかドイツ語だかの呪文を唱えているという。つまり、「リリカルおもちゃ箱」の登場人物を使いながら、それに準拠していない……ということだ。
 もう一つは、第一話のタイトルが「魔法少女なのにリリカルなの?」ではなかったこと。そして、「リリカル、マジカル、テクニカル」……ではなかった(そうだ。詳しい話は見ていないので知らない)。「3」のCMスポットの中では、第一話のタイトルがそれで、「放送開始に、リリカル・マジカル・テクニカル」と言うとされていたのだった。

「うん。原作とは関係ないんですよ。あれは、“なのは”であって、とらハじゃないんです」
「な、なんだってーー!?」

 その日以来、私は、何があっても「リリカルなのは」だけは見るまいと心に決めた。大好きだった原作のとらハの世界が崩れ去ってゆくのは、どうしても耐えられなかった。心の中で、何度も叫んだ。だって、大好きだった原作と全然違う!

「リリカルなのは」なんて、大ッ嫌い!!

 同時期、私は、WoDでも同じ経験を余儀なくされた。「フォーセイクン」が世に出回り始めたのである。2006年8月の段階でも邦訳は発売されていないが、WoD好きな人々はそれを買い求め、辞書と格闘しながらゲームをしていたのである。
 私は、「ワーウルフ:ジ・アポカリプス」が、グラスウォーカーが好きだった。ラガバッシュが好きだった。斥候として、そしてトリックスターとして、西洋近代の科学技術に対峙するワーウルフにアンチテーゼを叩きつけることが楽しかった。私の愛したキャラクター達は、そのようなスタイルのせいで何度も死にかけ、あるいは死に、あるものは行方不明になった。それでも、「アポカリプス」への愛情が冷めることはなかった。
 だから、私はフォーセイクンのお誘いがあっても、決して積極的に参加しようとは思わなかった。だって、そこにいたのはラガバッシュではなく単なる斥候だった。グラスウォーカーではなく、単に技術を使うだけのアイアンマスター(それに、アイマスなんて略称は格好悪い!!)。思想に基づく崇高な戦いではなく、ただ単に生きるためだけの空しい殺し合い。どれもこれもが、安っぽく、退屈に見えた。
 それに、「フォーセイクン」認めてしまったら、大好きな「アポカリプス」に旧作のレッテルを貼り付けてしまうことになってしまいそうで嫌だった。ストーリーテラーには言えないけれど、(フォーセイクンなんて、大ッ嫌い!)って心の中では叫んでいた。
 そう。「フィジカル、マヂカラ、タクティカル」なワーウルフなんて欲してはいなかった。私が求めていたのは、「リリカル、マジカル、テクニカル」で「みんなで幸せになろう?」というアポカリプスだったのだ。

 なのにもかかわらず、この間、「フォーセイクン」に参加した。理由は良く覚えていないのだが……ともかく、参加した。初めてのことだった。
 結論から言わせてもらうと、ラガバッシュもグラスウォーカーもいなかったけれど、それはそれで面白かった。確かに最初は違和感を持ちながら遊んでいたし、その意味では正直、評価は低い。だけど、それは、「どれだけ同じか」という尺度で測った場合の話だ。絶対値とか相対値とか、そういう基準じゃない。だから、セッション終了後、「意外にコレ、面白いですね」という一言が自然に出てきたのも、不思議に思わなかった。

「食わず嫌いは良くないですよ、柚木さん」
「そう……かもね」

 そのとき、私の頭の中に浮かんできたのは、「フォーセイクン」ではなく、「リリカルなのは」のことだった。もしかしたら、今なら、別のものだとして楽しめるんじゃないか? そんな気がした。一刻も早く家に帰ってテレビの電源を付けたい……という衝動に駆られていた。見たい、ではなく、見なければならない。損していたかもしれない、という思いは、損していたに違いない、に変わっていた。

「あ。じゃあ、これで」
「あ、はい。お疲れ様です。明後日はキャンペーンの1回目ですからね」

そんな重要連絡事項も適当にあしらって、私は友人宅を出た。
北海道とはいえ、走れば汗だくになる夏の明け方の帰路を私は急いだ。

始電を待つ人ごみの中をつきぬけ、
幾度となく信号を渡り、
自宅の階段を駆け上がり、
鍵を回し、
電気をつけるのもそこそこに、
テレビの電源をつける。
テレビの電源をつ……つけ……つける……?

「私、テレビもってなかったじゃんかーーーー!!!!」

 近所迷惑な叫びが、早朝のマンション中に木霊した。

□ ■ □

 テレビが無いと見られない「リリカルなのは」なんて、やっぱり大嫌い!
          (……でも、ちょっと好きになったかも)

【 完 】

著:柚木正純  2006年8月26日

←トップ・ページ