小林正親
さて、『ウタカゼ』について話してみよう。
たとえば、この話は私の自慢話ではないし、私の苦労話でもない。私の思い入れや想念や退屈な自己宣伝でもない。
ただの歌と風の物語の話である。
まだ小さかった子供の頃、もう少し、私は地面に近いところで暮らしていたし、見るものすべてがみずみずしかったし、虫や魚や鳥が愛らしかったり、極端に恐ろしかったりしたことを、なんとなく、覚えている。
その、なんとなくの感覚を、なんとかしてファンタジーにいかそうとずいぶんと考えてきたものなのだけれども、そう上手くはいかないものだ。
なにしろ、もう私は、ずいぶんと大人なのだから。
大きくなってしまって、たいがいの出来事はすでに知った気分になっている。
その思い悩みは、あまりにも激しくて、私はもうファンタジーに関わることはやめようと思いつめていたほどである。
だから、『ウタカゼ』を考えた、という「わけ」ではない。
ものごとは、そのような単純なものではない。
だいたい、今まで、すべての出来事が単純だったためしはないのだ。
だから、単純ではない。
そんな単純なことではない。
言葉のなかには、そっと意味がつまっていて、その意味がテレパシーのように通じることで、ようやく、意味は、その人の心のなかでかたちになる。
それが「伝わる」ということだ。
私が言葉で描いた風景を、読者のみなさんに伝えようとも、その意味が伝わらなければ、心のなかでかたちになってはくれない。
その意味というものが、感情的で、感覚的で、情緒的で、叙情的で、みずみずしくなければ、言葉はなにを重ねても、まったく、どうしようもないものなのである。
どうしようもなければ「待つ」しかない。
待つということは、あきらめることではなく、機会をうかがい、たたずむということである。
私は、じんわりと待つことにした。
「待っていれば、なんとかなるさ」
といった楽観的な気持ちが私のなかにはあったりもする。
それから、しばらくして、いろいろなことがあって、私はその言葉に、そっと詰めこんでいく「意味」のことを思い出し始めた。「意味」のなかにある風景や情景のことを思い出し始めた。
意味が浮かべば、そう、意味さえ浮かべば、言葉も、もうすぐ現れてくるだろう。
さて、そろそろ、『ウタカゼ』について話しておかなければいけない。
さすがに読者の皆さんも、退屈で、頭がぐるぐるとしてきているはずだろうから。
この「想いがかたちをなす大地」のすべてのかたちあるものには「竜の歌」が流れている。
葉っぱのさきについた銀色の一滴や、川原の湿った石ころや、それこそ、ネズミ族のちょこんとした鼻先で揺れるヒゲの先にも「竜の歌」は流れている。
そのすべてのものに宿る「竜の歌」を聞き取り、読み解き、自分の心のなかで、かたちにすることができれば、誰もが歌の龍や風の龍のように、風景を作り出すことができる。雨の龍や雲の龍のように空の景色を作り出すことができる。月の龍や影の龍のように太陽と月が織り成す時間を作り出すことができる。
ウタカゼたちは、まだ、その「竜の歌」の秘密を知らない。
もしかしたら、龍樹の枝先で、脚をぶらぶらさせながら唄っている、歌の長ならば、その竜の歌の秘密に気づき始めているかもしれない。
しかし、歌の長は唄を歌うだけで、答えを出そうとはしないだろう。歌は歌であり、龍は龍であり、すべては時のなかで流れ、広がっていき、とどめるものではないのだから。
これが、私の語りたかった歌と風の物語のひとつである。
まだまだ語り足りない気持ちもあるのだけれども、もう少し、上手く想い出せたら、言葉が浮かんでくるような気がする。もう少し、歌と風の物語が上手に描けるような、そんな楽観的な気持ちが私のなかにはある。
本日はありがとうございます。
このようなコンベンションを設けていただけるのは、作者として、実に嬉しいことです。
また、このようなコンベンションに来ていただけることも、作者にとっては、たいへん喜ばしいことです。
本日は、たくさん楽しんでいってください。
私も楽しんでいきます。